内裏神社の由来
だいりじんじゃ           
薄命の天皇妃を祀った内裏神社

弘文天皇の妃耳面刀自媛(みみものとじひめ)

1 天皇位を争った「壬申の乱」
 
 近江の都で天智天皇が病で薨去される時、次の天皇位を皇太子の「大友皇子」とした。大友皇子は若くして詩才に富み、漢詩の「懐風藻」に作品を残し、また武勇にも優れ、父の天智天皇に愛されていたという。
 しかし、天皇位を継ぐことができなかった天智天皇の弟「大海人皇子(おおあまのおうじ)」は吉野に行き、東国の兵を集めて天皇位を争って都に攻め寄せた。西暦672年が壬申という年なので「壬申の乱」という。
 琵琶湖に架かる瀬田の橋で激戦となったが、大友皇子側は敗走し、大友皇子は山前というところで自殺された。この時25歳という。
 そして、大海人皇子側は吉野で天皇位につき「天武天皇」となった。大海人皇子はたいへん政治力があり、強力な国家運営をされた。
 敗走して自殺された大友皇子は、明治3年「弘文天皇」と贈り名されて天皇位に正式につくことになった。

2 大友皇子の妃「耳面刀自媛」

 敗走して自殺された大友皇子の妃「耳面刀自媛」は、舟で中臣英勝など18名の従者と共に鹿島に逃れる途中、悲嘆のあまり九十九里浜で病没されたという。
 妃は鹿島出身の「中臣鎌足」(後に藤原鎌足と改名)の娘といわれ、「刀自」は食料分配権、女性使用人への命令権を持つ女性統率者の敬称という。
 従者たちは妃を内裏塚浜へ埋葬し、椿の海近くで農耕に従事したといわれる。後に妃の遺体を大塚原に改葬したという。
 昭和46年、大塚原古墳を発掘し、細片化した人骨を新潟大学医学部で調査したところ、女性らしき細片骨に僅かに朱(貴人の埋葬時の防腐用か)がついていた。

 内裏神社の祭神として妃の名前がはっきりとされたのは後のことである。泉川に住んでいた神職「明内豊章」が書いた由来の、永長元年(1096年)旧図書にはただ「官女霊」とされて具体的な名が記されていない。
 媛の名を天皇妃として明確に位置づけたのは明治15年、当時の八日市場警察署長七等警部広田彬だった。
 広田は私費を投じて野手内裏塚に碑を立て「官女即大職冠内大臣藤原鎌足之女耳面刀自天皇大友妃也」と刻み、政府に正式に認めるよう熱心に運動し、以後耳面刀自姫は弘文天皇妃として認識されるようになった。(碑は現在、野栄町内裏塚、大利根用水路沿いにある。)


内裏塚(野栄町野手内裏塚)

広田彬による碑

3 妃を祀る「内裏神社」
 
 大友皇子に愛された美しい妃も、不幸にも内裏塚の浜で逝去された。その霊を慰めるために泉川・川口入会地に祀られることになった。
 天慶3年(940年)9月、中臣美敷(英勝八世の孫)の時に少女に神がかりがあり、清浄の地に内裏塚の墳土を移して招魂の祭りを行ない、社を建てたのが「内裏神社」の始めという。
 嘉保年中 堀河天皇は勅使を下し、内裏の称号をもって妃と大友皇子の霊を祀った。
 永長元年(1096年)に御神幸を始めた。
 文化8年(1811年)御神幸を33年ごとに行うようになった。以降、天保14年、明治8年、明治40年、昭和14年に実施した。
 明治6年(1873年)泉川・川口・大塚原三村の村社に指定された。
 昭和46年(1971年)最も最近の御神幸が盛大に行われた。

このページは、郷土史家M先生の御了承を得て先生の講演レジュメをもとに構成したものでが、文責はすべて管理者にあります。なお、題字脇の絵も先生による耳面刀自姫の想像図です。


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